1987年 筑波鉄道筑波線 [はつかり(鉄系)]
懐かしの関東ローカル私鉄、時代は少し下って、1987年2月の筑波鉄道です。
当時は国鉄中心の乗り鉄活動に精を出していたため、どうしても私鉄は後回しになってしまって、ここも廃止の声が聞こえてからの撮影になりました。関東鉄道が分割されたのち、つくば万博の輸送にも一役買ったし、土浦は東京への通勤圏だと思っていたので、一気に全線廃止になるのはちょっとショックでした。
土浦から入って、まずは筑波山の見える常陸北条に行きます。
どこの駅も長いホームと広い構内がかってのにぎわいを感じさせていました。
北海道の雄別鉄道から転属してきた気動車です。
バス窓の気動車が懐かしい。
駅南側の跨線橋から常陸北条の駅構内が見下ろせました。
かっては貨物施設も整っていたであろう広い構内がまだ残っていました。
貨物線2線に旅客ホームも3面もあります。
筑波山のすそ野を回りこんで上大島駅に移動しましょう。
筑波駅をすぎると一気にローカルムードが高まります。
大きな窓のスマートな車体でなんと空気ばね付きの台車をはいていました。
キハ503+キハ301(元国鉄キハ35)です。
このような雑多な車輌が魅力の路線でした。
この桜の花咲くときに撮影したかったのですが、かないませんでした。
雑誌で桜の写真を見てここで下車したのかもしれません。
今度は真壁に移動。駅構内で撮影しました。
ここも広い構内が残っていました。
このあと水戸線の岩瀬に抜けて常総線で帰りました。
筑波鉄道はこのわずか1カ月後1987年3月31日限りで廃線となりました。
つくばエクスプレス開通まで踏ん張ってくれれば、ネットワークの一部として、南半分は生き残れたのではないかなどと妄想してしまいます。
いまはこれらの駅舎たちもあとかたもないのでしょうね。
当時は国鉄中心の乗り鉄活動に精を出していたため、どうしても私鉄は後回しになってしまって、ここも廃止の声が聞こえてからの撮影になりました。関東鉄道が分割されたのち、つくば万博の輸送にも一役買ったし、土浦は東京への通勤圏だと思っていたので、一気に全線廃止になるのはちょっとショックでした。
土浦から入って、まずは筑波山の見える常陸北条に行きます。
どこの駅も長いホームと広い構内がかってのにぎわいを感じさせていました。
乗ってきたキハ761が出発してゆく
北海道の雄別鉄道から転属してきた気動車です。
バス窓の気動車が懐かしい。
駅南側の跨線橋から常陸北条の駅構内が見下ろせました。
僚機キハ762
かっては貨物施設も整っていたであろう広い構内がまだ残っていました。
貨物線2線に旅客ホームも3面もあります。
筑波山を後に上ってゆく
筑波山のすそ野を回りこんで上大島駅に移動しましょう。
筑波駅をすぎると一気にローカルムードが高まります。
出発してゆくキハ504
大きな窓のスマートな車体でなんと空気ばね付きの台車をはいていました。
日中には珍しかった2両編成
キハ503+キハ301(元国鉄キハ35)です。
このような雑多な車輌が魅力の路線でした。
風情のある上大島駅のホーム
この桜の花咲くときに撮影したかったのですが、かないませんでした。
雑誌で桜の写真を見てここで下車したのかもしれません。
今度は真壁に移動。駅構内で撮影しました。
広い真壁駅構内をゆくキハ762
ここも広い構内が残っていました。
いかにもローカル線らしい看板たち
バス窓気動車キハ762
このあと水戸線の岩瀬に抜けて常総線で帰りました。
筑波鉄道はこのわずか1カ月後1987年3月31日限りで廃線となりました。
つくばエクスプレス開通まで踏ん張ってくれれば、ネットワークの一部として、南半分は生き残れたのではないかなどと妄想してしまいます。
いまはこれらの駅舎たちもあとかたもないのでしょうね。